日本脳炎ワクチンの成分について

少し前、日本脳炎ワクチン「ジェービックV」の添付文書の内容がTwitterに掲載され、90回近くRTされていました。「製法の概要」部分の抜粋ですが、単なる添付文書(誰にでも簡単に見られるもので、秘密の内容でもなんでもない)の抜粋がこれほど多くRTされていること、またそれに対し「怖すぎ」という反応があることに違和感を感じました。日本脳炎ワクチンについては、先日接種後死亡の報道があり、まだ死因は明らかになっていないということで(死因については、ワクチン自体とは無関係と考えられるようです。続報 日本脳炎ワクチン接種後の死亡例報道その後 感染症診療の原則 参照。2012.10.31追記)、社会の関心の高さを表しているのかもしれません。しかし、抜粋された部分を見て「意味はよくわからないけど、なんとなく怖い」と漠然とした不安を感じている方もおられるかと思います。添付文書は医師や薬剤師など、薬の専門知識を持った人が見ることを前提に書かれていますから、一般の人が見るにはかなり説明不足なのです。そこで、拡散されている添付文書が具体的に何を言っているのか、自分なりに調べたことをメモしておきます。

日本脳炎ワクチン「ジェービックV」添付文書の内容

twitterで拡散していたのは以下の文です。日本脳炎ワクチン「ジェービックV」添付文書の「製法の概要」からの抜粋です。

「本剤はアフリカミドリザル腎臓由来株化細胞)で増殖させ、ホルマリンで不活化した後、硫酸プロタミンで処理し凍結乾燥。なおウシの血液由来成分、ウシ及びヒツジの胆汁由来成分、ブタの膵臓由来成分を使用。」

ウシの血液由来成分、ウシ及びヒツジの胆汁由来成分、ブタの膵臓由来成分…そのようなものがワクチンに含まれているのでしょうか?しかも、アフリカミドリザル腎臓由来細胞…なんとなく不気味に感じる人もいると思います。

ところで、上記の引用は(一部略)であり、たぶん140文字に収めるためにだと思いますが、かなり内容が削られています。もとの添付文書の内容をそのまま引用したのが以下になります。

製法の概要

本剤は日本脳炎ウイルス北京株をVero細胞(アフリカミドリザル腎臓由来株化細胞)で増殖させ、得られたウイルスを採取し、ホルマリンで不活化した後、硫酸プロタミンで処理し、超遠心法で精製し、安定剤を加え充填した後、凍結乾燥したものである。
なお、本剤は製造工程で、ウシの血液由来成分(血清)、乳由来成分(エリスロマイシンラクトビオン酸塩)、ウシ及びヒツジの胆汁由来成分(デオキシコール酸ナトリウム)、ブタの膵臓由来成分(トリプシン)を使用している。
ジェービックV添付文書(2012年7月改定 第8版)、製造販売元 阪大微生物病研究会 より抜粋*1

先ほどの文章より具体的になりました(実は、細胞培養の経験がある方なら、これだけで「あ、これはあれに使うのね」と、ほぼ納得いただけてしまうような内容でした)。これらの成分がなぜワクチンを作る時にどのような働きをするのか、そして安全性は?という点について考えてみたいと思います。


細胞培養日本脳炎ワクチン開発の経緯と製造方法

その前にまず、「細胞培養日本脳炎ワクチン」とはなんなのか、なぜ細胞培養でワクチンを作るのか、またその製造方法を調べてみました。


一般財団法人大阪防疫協会の機関誌「makoto」平成21年10月号に、ジェービックVの製造販売元である(財)阪大微生物病研究会理事で大阪大学名誉教授(掲載当時)である上田重晴氏による「細胞培養日本脳炎ワクチン(ジェービックV®)の開発」という記事が掲載されています。本記事によれば、日本脳炎ワクチンはわが国で1954年から使用されていました。生きたマウスの脳で増殖させたウイルスをワクチン材料としていたようですが、改良に改良を重ねて「因果関係がはっきりしないADEMを除いては、ほとんど副反応がない、免疫効果の優れた完成品に近い」ワクチンであったそうです。しかし、ADEM(急性散在性脳脊髄炎)という非常にまれ(90万回接種当たり1件以下)な中枢神経系の疾患との関係が否定しきれないために2005年、「日本脳炎の定期予防接種について積極的勧奨を差し控えるという厚生労働省健康局結核感染症課長勧告が出された。以後、日本脳炎の定期予防接種は接種率が低迷し、ほぼ中止状態に至った」そうです。その時、「たまたま開発中であった」のが細胞培養ワクチンでした。

しかし、私どもがマウス脳から細胞培養にウイルスを増殖させる細胞を変えようと考えたのは、動物を使用していると動物が持っている微生物の除去をはじめ、いかに動物の飼育環境をクリーンにしても、ワクチンの品質管理が大変な作業になること、マウスの使用量が年間何百万匹という大量になるので、1年前に製造量を決めてマウスを発注をしなければならないため、急な製造量の変更ができないこと、マウスの脳内にウイルスを接種し、発症寸前のマウスから脳を採取する作業が動物愛護に逆行すること、などの理由からで、私どもが細胞培養日本脳炎ワクチンの開発を始めたのは1995年であった。もちろん、脳を使用しないことから脳物質の混入については心配する必要はなくなった。
細胞培養日本脳炎ワクチン(ジェービックVR)の開発 上田重晴 より

日本脳炎ワクチンは不活化ワクチンと言って、ウイルスそのものをホルマリンなどで不活化(感染性をなくすこと)して作ります。ウイルスは、細菌などとは違って、栄養を与えておけば勝手に増えてくれる微生物ではなく、その増殖には必ず生きた細胞が必要なのです。その「生きた細胞」を「マウスの脳」から「培養細胞」に変えた、ということになります。生きた動物より、培養細胞のほうが感染性物質等の混入の危険性も少なく、扱いやすく、脳物質の混入の心配もないということで、細胞培養ワクチンが開発されたようです。



細胞培養によるワクチンの製造方法は、まずVero細胞を増殖させ、そこに日本脳炎ウイルスを加えて細胞内でウイルスを増やします。何日かすると培養上清(上澄み)の中にウイルスが増えているので、それを回収して濃縮後、ホルマリンで不活化し、精製、ろ過滅菌します(乾燥細胞培養日本脳炎ワクチン(販売名ジェービックV)審査結果報告書【暫定版】p.6-8)


Vero細胞(アフリカミドリザル腎臓由来株化細胞)とは?

では、Vero細胞とはいったいどのようなものなのでしょうか?

ウイルスを培養する細胞はVero細胞にした。Vero細胞は、安村美博博士(現独協医科大学名誉教授)が千葉大学医学部に在籍しておられたときに、アフリカミドリサルの腎臓細胞から樹立された細胞株である。インターフェロン*2を作らないので、種々のウイルスの培養に適している。WHOは自然資源保護の目的から、この細胞を使用してのワクチン製造を推奨しており、外国ではすでに不活化インフルエンザワクチンや不活化ポリオワクチンの製造に使用されている。私どもはこの細胞を米国のATCC(American Type Culture Collection)から購入し、WHOの基準に決められたテストを済ませた上で、マスターセルバンク*3を作製し、製造に備えた。
細胞培養日本脳炎ワクチン(ジェービックVR)の開発 」上田重晴 より

Vero細胞については、FDAの会議資料「History and Characterization of the Vero Cell Line」にその歴史と特徴がまとめられています。1962年に安村博士らにより樹立され、1980年代には仏国で不活化ポリオワクチン(IPV)、経口ポリオ生ワクチン、不活化狂犬病ワクチンの生産に使用、1990年には米国でのIPV生産に使用されるようになりました。WHOの資料(Recommendations for the Evaluation of Animal Cell Cultures as Substrates for the Manufacture of Biological Medicinal Products and for the Characterization of Cell banks. Proposed replacement of TRS, 878, Annex 1 - ECBS 18 to 22 October 2010)によれば、ポリオウイルスワクチン、ロタウイルスワクチン、狂犬病ワクチン、日本脳炎ワクチンの製造に使用されている旨の記載があります(p.37 table1)。日本で樹立され、世界でワクチン製造や研究に使用されている実績のある細胞なのです。「バイオダイレクトメール vol.62 細胞夜話 <第24回:ウイルスがクセモノ? - アフリカミドリザル腎細胞>」にも逸話が掲載されています。



乾燥細胞培養日本脳炎ワクチン(販売名ジェービックV)審査結果報告書【暫定版】p.6によれば、ジェービックVの製造に用いるマスターセルバンクについて、形態観察試験、無菌試験、結核菌培養否定試験、マイコプラズマ否定試験、細胞やマウス・モルモット・ウサギ等への摂取試験、造腫瘍性試験、レトロウイルス否定試験、細胞同定試験等を行い、細菌やウイルスが混入していないこと、培養期間中に安定であることを確認しています。


その他の成分について

  • ウシの血液由来成分・血清は、細胞培養の培地に添加します。血清は、血液を凝固させてその上清をとったものです。細胞の増殖に必要ないろいろな成分が含まれており、血清なしで細胞を培養するのは一般的に困難です。
  • ブタの膵臓由来成分・トリプシンは酵素の一種で、細胞同士や細胞と培養容器の間の接着を剥がすのに使用します。トリプシンは培養中ずっと使い続けるのではなく、細胞が容器にいっぱいになるなどで、細胞を植え継ぐ*4際に使用するものです。
  • ウシの乳由来成分・エリスロマイシンラクトビオン酸塩、ウシ及びヒツジの胆汁由来成分・デオキシコール酸ナトリウムは、細胞培養中に細菌やカビが混入しないようにするために培地に添加する抗生物質と抗菌剤です(デオキシコール酸ナトリウムはアムホテリシンBという抗菌剤の添加物として含まれています)。この2つの薬剤に関しては、「注射用」との記載がありますので、医薬品グレードのものを使用しているようです。(乾燥細胞培養日本脳炎ワクチン(販売名ジェービックV)審査結果報告書【暫定版】p. 48)。


Vero細胞及びこれらの動物由来成分は、培養した日本脳炎ウイルスを回収・不活化した後、精製工程で除去されます。ワクチンに動物由来成分そのものが含まれるわけではありません。精製工程のバリデーションでは、異種たん白質含量試験では、検出限界以下か、検出された場合でも他の細胞培養ワクチンの生物基準(最終バルク中の含量が50ng/dose*5)に適合する範囲であること、Vero細胞由来DNAの含有量がWHOで定められた細胞由来DNAが由来の基準値(10ng/dose以下)を大きく下回ることが確認されています。また、精製後のワクチン原液について、無菌試験、異種血清たん白質含量試験*6、Vero細胞由来DNA含量試験等が規格として設定されています(乾燥細胞培養日本脳炎ワクチン(販売名ジェービックV)審査結果報告書【暫定版】p.9)。


動物由来の成分を使うリスクとは何か

動物由来の成分をワクチン製造に使用するリスクとは、具体的にいったいなんなのでしょうか?まずは、ウイルスや細菌、マイコプラズマ等の病原体が混入している危険性が考えられます。ジェービックVの製造においては、細胞培養時に細菌・ウイルス・マイコプラズマ等が混入していないことを確認、さらにウイルス回収後に細菌・マイコプラズマが混入していないことを確認しています(乾燥細胞培養日本脳炎ワクチン(販売名ジェービックV)審査結果報告書【暫定版】p.6〜7)。また、ウシ等の反芻動物に関しては、BSE感染の恐れがあります。ジェービックVの製造工程で問題となるのは、細胞の大元のストックであるマスターセルバンク、またウイルスの大元のストックであるマスターシード作成時で、作られたのが昔(BSEのリスクが問題にされるより前)であることから、米国産、日本産等のウシ由来製品を使用していたり、動物種、原産国の情報が不明になっているものがあるようです。しかし、ウシ血清はBSE感染牛が確認される前のウシ血液由来であること、エリスロマイシンラクトビオン酸は、イギリス・ポルトガル*7以外の国を原産国とするウシの乳由来である可能性が高いこと、デオキシコール酸ナトリウムについてはその製造過程にプリオンが不活化されるアルカリ処理が含まれていることなどから、リスク評価の結果、「本剤の接種によりBSEに感染するリスクは極めて低い」と考えられています(乾燥細胞培養日本脳炎ワクチン(販売名ジェービックV)審査結果報告書【暫定版】.47-48)*8。トリプシンに関しては、ブタ由来で反芻動物ではないため、BSEのリスクには関係ありません。


ジェービックV承認時の、「09/01/29 平成21年1月29日薬事・食品衛生審議会医薬品第二部会議事録」には以下のような発言の記録があります。

機構*9 規格の中に、異種血清たん白質を測っている試験があります。審査報告書の52ページには具体的な数値を示していませんが、異種血清たん白質含有試験というものを製剤の規格試験に設定していまして、こちらについて確実に低レベルに管理されることを確認しています。精製工程のバリデーションからも恒常的に異種血清たん白質は除去されるということを確認しています。
新井委員*10 それを確認したのですが、ほかにBSEに感染していないと思われる血清、あるいは牛を使うこともされていると思いますが、この異種血清たん白質の検出だけでよろしいのかというのが少し気になりましたので、安全性という観点から、それについて、大体それでよろしいということであれば納得できますが。
早川委員*11 どこのページに存在しているかは忘れましたが、今のBSEの問題に関してはいろいろな角度から検討されていて、現在のところ厚生労働省が、こういう値をクリアすれば大丈夫だという「−3」という値がありますが、「−11」ぐらいの値が、いろいろな生物由来原料の中に出ているということで、その点は十分に検討されていると思います。付け加えますが、マウス脳から作ることに対して、不特定多数のマウスを使うわけですから、そういう意味での危険性も逆に考えられるわけですが、これはよく管理されたVero細胞から出発するということで、そういう意味での安全性はより高いのではないかと思います。

ジェービックVのBSE感染リスクについては、まったく危険がないと断定することはできないですが、医薬品として十分安全であることが確認されているようです。


動物由来成分を使用して製造するワクチン等については、確かに感染症等のリスクがあります。しかし、Vero細胞は使用実績も十分にあり、無菌的に培養して維持されることからマウスの脳による培養よりも安全性は高いと考えられます。また、他の動物由来成分も含め、ワクチン製造の工程で精製により除去されており、ワクチンにこのような成分自体が含まれるわけではありません。そして、リスク評価の結果、医薬品として十分安全なレベルであることが確認されているのです。


ワクチンを含め、医薬品の安全性については必ず「その医薬品のもたらすメリット」とセットで考える必要があります。添付文書は、医師や薬剤師といった医薬の知識をじゅうぶんに持った人が見ることを前提に書かれています。専門家が必要な情報をさっと得られるよう、コンパクトにまとめられており、用語の使い方などに独特のルールがあります。添付文書を見ること自体は誰にでもできます(「PMDA 添付文書」で検索すれば、データベース検索ページにたどり着けます)し、見るのは悪いことではないでしょう。しかし、使用されている用語や記載内容を正確に理解するのはかなり難しいと思います。まして、一部を抜き出して、センセーショナルに「暴露」することになんの意味があるのでしょうか?こういったよくわからない情報発信は有害無益だと思います。


ブログにさんざんワクチンの記事を書きながら矛盾しているとは思いますが、ワクチンに関してはネット上の情報よりも、主治医の先生、薬剤師さんにご相談されることを強くお勧めします。


<謝辞>
本エントリを書くにあたり、むすか(@go_over_Neumann)先生に色々とご教示いただきました。ありがとうございました。

*1:ジェービックVは、阪大微生物病研究会が製造販売元で、田辺三菱と武田より販売されています。販売元が異なっても添付文書はほぼ同一の内容と思われますが、本エントリでは田辺三菱版の添付文書をテキストとしています。

*2:細胞が分泌する、ウイルス増殖を阻止する物質

*3:ワクチン製造に使う細胞のおおもとのストック

*4:一旦培養容器から回収し、薄めて蒔き直すこと

*5:dose=一回に投与する量

*6:ウシ血清タンパク質の混入量を測定

*7:反芻動物の乳由来製品の使用を禁止されている国

*8:また、今後新たにマスターセルバンク、マスターシードを調整する際には、米国産等の反芻動物由来原材料を使用しないものに変更するとしています

*9:医薬品医療機器総合機構

*10:新井洋由氏(東京大学教授)

*11:早川堯夫氏(近畿大学教授)