国内シェア98%の製造工場が被災したとき、甲状腺ホルモン薬を死守した人々の記録

先日、日本小児内分泌学会が、「長野県において福島県から避難している子どもの甲状腺検査に変化がみられたとする報道に関しての学会声明」を発表したというニュースがありました。
同学会は、震災直後から、福島原発事故に関連した、誤ったヨウ素含有製剤・食品の摂取への注意など、積極的な情報発信を行なっていました。

さて、そんな学会の東日本大震災の関連情報の中に、第12報まで続き完結したある文書を見つけました。それは、「甲状腺ホルモン薬供給再開への取組等について」と題されたもので、そこには「甲状腺ホルモン薬」の国内供給をなんとか維持しようと奮闘された方々の努力が、一見淡々と、しかし熱く綴られていたのです。


震災で「一生必要な薬」の製造がストップ

東日本大震災あすか製薬いわき工場被災でチラーヂンの製造停止‐緊急輸入など代替措置急ぐ

 東日本大震災の影響で、甲状腺ホルモン剤「チラーヂンS」(成分名:レボチロキシンナトリウム)の製造がストップしている。製造販売元のあすか製薬いわき工場(福島県いわき市)が被災し、製造設備や立体倉庫が損傷を受けたため、チラーヂンS生産の見通しがつかない状況にある。18日時点で安定供給のメドは立っていない。(略)
 甲状腺機能低下症治療薬のチラーヂンSは、あすか製薬が98%を製造販売しているため、いわき工場の被災による製造ストップが、供給停止に直結した。
(以下略)


薬事日報 2011年3月18日より抜粋

震災一週間後の、薬事日報の記事です。
甲状腺機能低下症とは、文字通り甲状腺の機能が低下し、甲状腺ホルモンが不足する病気で、治療法は甲状腺ホルモン剤による甲状腺ホルモンの補給になります。多くの人は一生薬を服用する必要があるようで、放置すれば命に関わることもあるそうです(参考:まえだ循環器内科 甲状腺機能低下症Q&A)。


甲状腺ホルモン剤は、甲状腺機能低下症の人にとっては死活問題となる大切な薬でありながら、国内ではあすか製薬の「チラーヂンS錠」等が98%のシェアを占め、それがただ一つの工場(あすか製薬いわき工場)のみで作られていました。そのため、製造工場が被災し、余震が続き製造再開の見通しがつかない中、このままでは薬の供給が完全にストップしてしまうかも知れない、という危機に見舞われました。


この時の、甲状腺ホルモン剤を使用している人たちの声が、2ちゃんねるまとめブログに残っています。


厚生労働省日本医師会の要請により長期処方が中止され、不安がる患者さんたちの混乱が伝わってきます。また、情報が錯綜している様子も見られます。


甲状腺ホルモン薬を死守した人々

3月22日付「甲状腺ホルモン薬供給再開への取組み等について」によれば、3月19日現在、チラーヂンS錠等の国内在庫は約1ヶ月分、あすか製薬による供給再開は4月中旬の見込みでした。


この状況を受けて、日本内分泌学会、日本甲状腺学会、日本内分泌外科学会、日本甲状腺外科学会、日本小児 内分泌学会の関連5学会は「レボチロキシンナトリウム安定供給対策委員会(T4委員会)」を設置し、対応にあたりました。打ち出した対策は以下のようなものでした。

  1. 3 か月処方といった長期処方を避け、原則 1 か月以内の期間の処方とする
  2. 状況によっては、さらに短い処方により、譲り合う
  3. 神経発達上どうしてもレボチロキシンが必要な新生児・乳児および妊婦への処方を優先する(これらの処方は合わせても全処方量の1%未満と推測されます)

甲状腺ホルモン薬供給再開への取組み等について

この対策は、8月末の第12報まで毎回繰り返しアナウンスされています。
同文書には、資料として3月19日付のあすか製薬のから報告が添付され、震災直後の3月14日から工場内の調査、原料調達等に奔走し、製造再開に向け必死の努力を続けていたことがわかります。


T4委員会は、長期処方抑制により需要を減らすことができる2ヶ月程度のあいだに、なんとか在庫を確保しようと、また余震や原発事故による不測の事態に備え、輸入や国内の他工場での委託生産、またあすか製薬以外(ジェネリック品)の増産を促していきました。


また、あすか製薬ジェネリック品のメーカーであるサンド株式会社らも、製造再開、緊急輸入に向けて最大限の努力を行ったものと思われます。


そのかいあって、3月の終わりにはあすか製薬で震災時に製造途中だった製品の製造と出荷が再開、4月はじめにはサンド株式会社によるドイツからの緊急輸入が開始、そして4月19日にはあすか製薬での原末から出発して製造された製品の出荷が始まり、なんとか在庫が底を尽きることなく、8月には長期処方の自粛が解除されるまでに回復しました。


これらの動きは、T4委員会からの報告書「甲状腺ホルモン薬供給再開への取組等について」で逐一報告されていました。供給の目処が立った4月末までは、週一以上のペースでリリースされ、タイムリーな情報提供が行われていたようです。

そして、最後の報告書である「甲状腺ホルモン薬供給再開への取組等について 第 12 報」では、長期処方自粛解除を受け、震災からの5ヶ月間を振り返った総括がなされています。そこには、あすか製薬およびサンド株式会社の迅速な対応、学会からの情報発信に加え、全国の医療機関、薬局、患者さんの理解と協力に対する感謝と、薬の供給を一つのチャンネルに頼っていたことに対する反省、今後の対策についての報告が記載されています。


長期処方自粛による、薬の消費量の減少についてのグラフや、各企業の対策と国内在庫の増加についての図まで載せられていて、かなり丁寧に書かれたこの報告書に、執筆者の「秘めた情熱」のようなものを感じて胸が熱くなってしまいました。


この件では「買い占め」のようなことに流されず、冷静に(ではなかったかも知れませんが)薬を譲りあった患者さん、医師たちの「我慢」も、たいへんなものだったと思います。そして、余震と原発の不安定な状態が続く中で、工場の復帰のために尽力された方々、それを支えたであろう家族の皆さんには頭が下がります。


震災により、さまざまな工場や企業が大きなダメージを受けました。
その中で、この事例のように、社会的責任を果たそうと必死の努力が行われた例は無数にあるに違いありません。
どうか、そのような企業が報われる世の中であってほしいと思います。


10/24追記
フォロワーさんから教えて頂きました。
そもそもなぜあすか製薬のみの供給に頼っていたかについて。
薬価が安く、利益が出しにくい薬なのがネツクのようです。