まんなかをずらしてしまうデマへの抵抗
今日は、私がなぜこのようなブログを書いているのか、個人的な考えをまとめておきたいと思います。
このブログのテーマは、というか多く扱っているのは、いちおう「科学がらみのデマの検証」ということになります。
これまでもずっとこのようなデマはありました。例えば、ワクチン反対論などというものはそれこそネット以前からずっとあったし、怪しい代替医療やホメオパシーもどこかの世界でずっと受け継がれてきたものです。
私は、「疑似科学」というものに、いちおうずっと興味を持ってはいました。
社内の勉強会で「DHMO」の話を取り上げたこともあります(けっこう好評でした)。
それでも、ネット上にある色々な「怪しい主張」に自分から近づきたいとはあまり思いませんでした。
こういう主張をしているサイトは、たいていいたずらに感情を煽るような文章で、パッと見てどう考えてもおかしいように思える主張がなされているが、はっきり反論するにはかなり調べないといけなかったり、100%白ではないということを真っ黒だというような(ではどの程度の灰色なのか、というとちゃんとしたデータがなかったり)、反論しにくい誇張が行われていたりして、見るだけで疲れてしまうようなものが多かったからです。そして、調べ物の最中にgoogle検索に引っかかってつい読んじゃった、なんてこと以外ではあまり向き合わずに済んでいました。
ところが、twitterの普及によって、これまでまとまった文章にするまでもないということでどこにも発表されることがなかった、個人のちょっとした考えや、ものごとに対する率直な感想、あるいは直感的にひらめいたことなどを目にする機会が増えました。これまでだったら、テレビを見ながら家族にちょっと言う、というような、カジュアルなつぶやきです。すると、予想外に、「え、それ信じちゃうの」というようなデマを信じてしまうことが人にはあるということに気づきました*1。
そして、もうひとつ。
「どんなにデタラメな主張でも、それがある程度人の口に登れば、数に入れられてしまう」ということにも気づいたのです。
人は、あらゆることに精通することはできません。
自分が詳しくないことについて判断するとき、ネットや知り合いなどに色々な意見を聞いて、「まんなか」あたりがバランスがとれているだろう、というふうに考える人もいます。というか、結構いると思います*2。
そんなとき、なんせ自分は詳しくないことですから、100個の意見を読んで、その中で「どの意見がどの程度妥当なのか」という判断がつかず、結局データや説のクオリティにかかわらずすべてを同じ重み付けで「真ん中」を選んでしまう…。
もしくは、あまりに正反対の両論があって、「こんな意見もある、あんな意見もある。結局、本当のことは誰にもわからないんだ」と結論してしまう…。
例えば、私も経済とか政治の世界のこと、あるいは物理の世界のこととなるとさっぱり…なので、このへんの分野で色々な意見を見て、誰が妥当なことを言っているのかはなかなかわからないことがあります。そこで、だれかその問題に詳しい人がいて、少し考えるヒントをくれたら…と思うこともあります。
自分の判断を他人に委ねるのではないけど、その世界の「常識」を知っている人や、その問題について詳しく調べている人が助言をくれたら。
私はこのブログで、そういうふうに思った時のための情報提供が微力ながらできたらいいと思っています。
私は科学者でも医者でもありません。なんの肩書きもありません。
まだまだ力不足で勉強不足で、人にわかりやすく伝えることも難しいです。
それでも、自分にとっての常識(自分の属する世界では常識とされていること)や、単に興味を持って調べたことであっても、それを公開することには(たぶん)意味があるだろうと今は思っています。
すくなくとも、デタラメによって歪められた「まんなか」を、少しでも戻すための、「言論(意見)の頭数」として、存在できるように、そう思っています。
なぜなら、デタラメやデマで、人々を惑わせたり、自分の都合のいい考えを広めようとする人たちがはびこる世の中というのが、イヤだからです。
そういうことをしたら、どこかからツッコミが入れられる世の中であってほしいからです。
自分だって、いつ騙されるかわからない。
そんなとき、すかさずツッコミを入れてくれる人がいてほしいからです。
うーん、だんだんポエムみたいになってきました。
とにかくそういうことです。