感情のことばと理性のことば

「チェルノブイリへのかけはし」批判者は、汗をかいてから批判して欲しい等の主張

「理系」のレポート*1、報告書の類には掟がある。

  • 事実(結果)と、自分の意見(考察)は明確に区別する。
  • 事実(結果)にはなるべく主観が入らぬよう、客観的な記述を心がける。
  • 他人のデータや考えを引用するときは、引用元を明示し、どこまでが引用かをはっきり示す。
  • 自分の意見(考察)には、「感想」を書かない。
  • 自分の意見(考察)は、必ず事実(データ)や引用文献などの根拠に基づいて、論理的に書く。

ニセ科学批判者となりうるような人たちは、ほぼ皆このような文章の書く練習を一度はしたことがあり、そのような文章が「事実を記述した上で自分の意見を述べる」には最適な文章である、と(無意識に)考えているだろう。
「素人さん向け」に文を書くときでも、上のような原則は守ろうと心がけているのではないだろうか。


一方、こうした文の書き方に違和感を感じる、下手したら嫌悪感を感じる人たちもいるようである。
事実と感情、事実と願望、事実と自分の立ち位置、このようなものを分けてしまうことを「冷徹」と感じるようだ。
あるいは、「立場や願望とは別に事実を述べる」ということがしっくりこない。

その反応は、極端に言うとこういう感じである。

「鉄を熱すると酸化し、酸化鉄になった。これは、空気中の酸素によるものと考えられる」
→「あなたは鉄なんてみんな錆びてしまうべきだと言うのですね。空気を毒扱いなんてヒドイです」

一方、「理系レポート文」を愛する者たちは、上の文のような(ここまでのは極端だが)感情と事実と不安と怖れが入り交じった状態で書かれたような文章には嫌悪を抱くことも多いだろう。
冒頭のTogetterでも、コメントやブコメで母親をののしっている人が結構いるが、これはカオス文を見ての苛立ちに煽られてつい言葉を荒げてしまった、という人もあると思う。

そもそも、「カオス文」を書く人たちは、自分の「感情」を伝えることが第一で、「事実や根拠を述べる」ということにはあまり興味がないのではないだろうか。
だから「その根拠は?」ときかれても、「そんなどうでもいいこといちいち聞くなよ」的な反応になる。
また、「理系レポート文」のような、感情の書かれない文章は不気味で意図不明なものに感じられ、「だから何なんだ、つまり私をバカにしたいということか」と感じてしまうのではないだろうか。

デマをRTしまくる人たちに「本当なら大変なこと」というようなフレーズを愛用する人が多いのも、「とにかくタイヘンだという自分の気持ち」を伝えたくて、「本当ならタイヘンなんだけど、本当なの?」という事実確認はどうでもよくなってしまうんじゃないのかなーと思う。

「カオス文」愛好者たちも、実は科学的なことは嫌いではなくて(あるいは科学的な裏付けはほしいと思っていて)、自分たちの「感情」を汲み取ってくれる科学的なものは探している。
そこに漬け込むのが「お父さんの立場で発言する」などと言うインチキ学者たちではないだろうか。

かと言って、ニセ科学の批判者が相手に合わせて「感情の言葉」を使えばいいかというと、そうではないと思う。
ニセ科学の批判はあくまで科学のフォーマットに則っているべきである。

けれども、言葉は感情表現のためにあると感じる人たちに、事実だけを述べても何一つ伝わらないのではないかと思う。
「その裏にある発言者の感情」を読み取ろうと必死になり、オバケを呼び出されてしまうだけではないか。

科学コミュニケーションの問題として、「不安になっている心を受け止める必要性」について、菊池先生が言及されていたけれども、科学について述べる側が、「どんな気持ちでこの文を書いているのか」、(本文とは区別して)すこしぶっちゃけた言葉で示すのも、大切なのかも知れない。*2

*1:私が文系のレポートというものを読んだことがほとんどないので一応理系の技術系文書についての話

*2:kikulogはかなり示している方だと思うが、それでも反発されてるなぁ…とも思うのだが