「20世紀でもっとも多くの命を救った科学者」モーリス・ヒルマン博士の怪動画(1)エイズはワクチンから広まった?

昨年末のこのエントリでちょっと触れた、モーリス・ヒルマン博士。うさじまも、実はこの方を存じなかったのですが、調べてみると、なかなかすごい方で、なのに知名度は高くなくて、「モーリス・ヒルマン」で検索すると以下に紹介する動画関連の記事ばかり上位に来るので、どうなんだと思い、紹介&動画の内容を検証をすることにしました。

 

モーリス・ヒルマン博士とは

モーリス・ヒルマン(Maurice Hilleman)博士は、Wikipediaによれば、1919年生まれ、2005年没の、アメリカ人微生物学者です。2005年の「ニューヨーク・タイムズ」や「エコノミスト」、「インディペンデント」等の新聞に、博士の追悼記事が掲載されています。

これらの記事とwikipediaの記述を元に、ヒルマン博士の経歴と功績を簡単に紹介します。ヒルマン博士はモンタナ州に生まれ、彼を産んだ2日後に母親が亡くなったため親戚の農園で育ち、貧しくて苦労したようですが、家族の支援や奨学金によってモンタナ州立大学を主席で卒業した後、シカゴ大学で1941年に微生物学の博士号を取得。E.R. Squbb&Sonsに就職して日本脳炎ワクチンを開発、その後Walter Reed Army Medical Centerでインフルエンザウイルスの変異に関する研究を行いました。また、インフルエンザワクチンを開発し、1957年の米国でのインフルエンザ・パンデミックの防止に貢献しました。その後、メルク社において、1984年までの30年間近く、さまざまなワクチン開発に携わりました。ヒルマン博士が開発したワクチンは前述の日本脳炎、インフルエンザの他、おたふくかぜ、水痘(水ぼうそう)、風疹、A型肝炎B型肝炎髄膜炎等のワクチン、世界初の混合生ワクチンであるMMR(三種混合)ワクチン等、40種以上に及びます。現在米国で定期接種されている14種類のワクチンのうち、8種類がヒルマン博士によって開発されたものです*1。これらの功績により、1988年、レーガン大統領は、ヒルマン博士に米国の科学者としてもっとも栄誉ある賞、「National Medal of Science」を授与しました。このようにヒルマン博士は、20世紀の予防医学の発達に多大な貢献をされた方で、「20世紀で最も多くの人命を救った科学者」とも言われています。また、初期のポリオウイルスにSV40と呼ばれるサル由来のウイルスが混入していたことの発見にも貢献しました。この件に関してはあとで詳しく述べますが、まだPCRというウイルスの核酸を増幅して簡単に発見する技術が確立する前のことで、ウイルスを検出するのも容易ではありませんでした。ヒルマン博士は、研究のリーダーシップを取る能力とともに、実験も上手な人で、かつての同僚は「モーリスは、他の誰も持ち得ない(ワクチンの)大量生産の緑の親指を持っていた」と賞賛しています。

 

「モーリス・ヒルマン博士の告白」という怪動画

さて、このヒルマン博士の「告白」と称する謎の動画が、ネット上に存在し、「やっぱりワクチンって怪しいんだぁ〜」と不安を煽るのに利用されています。


この動画、いつどういう目的で博士にインタビューしたものなのか、なにかの番組なのか等、一切説明がありません。投稿者は「Thinker Movie」となっています。Thinkerというのはいろいろな陰謀論を流布しているサイトで、リンク切れしていますがたぶんこのブログ記事の中に埋め込まれている動画がこれなのだと思います。


また、さらに元をたどると、よくThinkerがネタ元にしている米国のNatural Newsというサイトの「Merck vaccine scientist Dr. Maurice Hilleman admitted presence of SV40, AIDS and cancer viruses in vaccines」という記事に、元の動画とその英文書き起こしの記事が見つかりました(日本語版は英語版を短く編集したもので、英語版にある台詞のループも除かれてています)。こちらの解説文には「(ヒルマン博士が)米国人に接種されたワクチンが白血病及びガンウイルスに汚染されていたことを公に認めた」「これは陰謀論ではない-これはメルクの主席研究員の言葉であり、彼はおそらくこの録音がインターネット上で広く検証されることを想定していなかっただろう(インターネットは、この録音を行った時には存在すらしていなかった)。」(うさじま訳)とありますが、どのようなシチュエーションで収録されたものなのかの説明はありません。Len Horowitz博士という人が、この録音を「発見した」そうです*2。動画の内容は、「医療歴史家 エドワード・ショーター博士」が「ヒルマン博士」にインタビューしている、というもので、もともとは音声のみのファイルであったものに、イメージ映像を乗せているようです。途中、複数の人の笑い声等が入っていて、二人で話しているのではないような雰囲気でもあります。本物のヒルマン博士やエドワード・ショーター博士の声がわからないこと、どういう録音物なのかまったく説明がないことなどで、これが「本物」なのかどうかよくわかりません。この動画の真贋はおいておいて、内容について検証したいと思います。この動画で「ヒルマン博士」が「告白した」内容は、まとめると以下のようになります。

  1. ウイルス製造用の細胞に野生のウイルスが混入していたため、アフリカミドリザルを輸入したところ、気づかないうちにエイズウイルスを持ち込んでしまった。
  2. ポリオワクチンに発がんウイルスSV40が混入していたことに気づいていたが、秘密にされ、今も人体実験が続けられている。

以下、検証のために引用する文章は、Thinkerの動画の日本語字幕を書き出したものです。発言者名は、英語の書き起こしを参考にうさじまが追加しています。

 

エイズウイルスはヒルマン博士によりアフリカから持ち込まれた?

動画は、ヒルマン博士の経歴を「地元の大手デパートチェーンに就職する予定でしたが/実際の彼は製薬業界に入りアメリカにおけるワクチンの研究開発分野で最も優れた技術者として功績を築き上げました。」と紹介した後、「医療歴史家 エドワード・ショーター博士」とされるインタビュワーの最初の質問から始まります。

ショーター博士「あなたはどうやってポリオワクチン中のSV40ウイルスを発見したのですか」

後述しますが、ポリオワクチンにSV40が混入していたというのは1960年ごろにあった実際のできごとです。この件についての質問だろうと思われます。この質問に対し、「ヒルマン博士」の回答は次のようなものです。

ヒルマン博士「そうだね/その件に関してはメルク社の内部事情が関係している/私はメルク社に就職して/ワクチンの開発技術者になった/その当時、いろんな野生のウイルスが氾濫していたものさ/たとえば野生のサルの腎臓中のウイルスなどだね/だから半年間、研究した後にあきらめてこう言ったのさ/『この忌々しいサル達からワクチンなんて作れたものじゃない!/もう何もできることはない 開発は中止だ/もちろん、努力はしてみるがね』とね」

ヒルマン博士」は、ワシントンDCの動物園のビル・マン氏を訪ね、

「実験用のサル達に手を焼いているんだ/サル達は輸送中に空港で保管されたり/積込みと積み下ろしを繰り返すうちに/シラミだらけになってしまうんだ」

と質問したそうです(ワクチン製造の話なのに、「実験用のサル」という言葉に違和感を感じましたが、英語の書き起こしでは「実験用」という言葉はありませんでした)。マン氏のアドバイスは、以下のようなものでした。

「そんなこと簡単さ/西アフリカからサルを持ち込めばいい/アフリカの野生ザルをマドリード経由で空輸するのさ/マドリード空港なら他の動物達と交わる心配もない/そこからフィラデルフィアに輸送して国内に持ち込めばいい/他にもニューヨークから持ち込むという手もあるね」

ところがここで、話は急展開します。

ヒルマン博士「とまあ、こういう感じでアフリカの野生ザルをアメリカに持ち込んだわけだが/当時、我々にはエイズウイルスを持ち込んでいたという自覚がなかった」
(複数の人の笑い声)
「あなたがエイズウイルスを持ち込んだ張本人だったのですね」
「これは、本当の話なんだ」
「だからメルク社はエイズワクチンを開発しないのですね」
(女性の爆笑)
ヒルマン博士「まあ、そういうわけで/彼というか、、、我々が野生のサルを持ち込んだのさ/新しいサルが手に入り問題は解決した/彼らは野生のウイルスを持っていなかったからね/しかし、、、」
ショーター博士「ちょっと待って下さい/野生ザルはアフリカから来たのに危険なウイルスを持っていなかったのですか」
ヒルマン博士「実際にこれらのサルは他のサルにみられた40種の様々なウイルス群には感染していなかった」
ショーター博士「その一方で、彼らはジャングルから例のウイルスを持ち込んでしまった」
ヒルマン博士「そのとおり/しかし当初、感染は比較的広まっていなかった/その後、サル達を狭い檻に閉じ込めたために感染が広まったんだ」

SV40の話のはずなのに、なぜか突然「エイズウイルス」が出てきました(この部分、「エイズウイルスを持ち込んだ」と言う話題で爆笑している声が入っており、うさじまは非常に不愉快になりました)。この唐突な「告白」の後、話はSV40に戻っているのですが、とりあえずここまでの内容を検証してみたいと思います。なお、字幕では「アフリカの野生ザル」と訳されていますが、英語では「african green」つまり「アフリカミドリザル」と言っています。これは検証において重要なキーワードとなります。


 

エイズウイルスの起源

HIV(ヒト免疫不全ウイルス)は、エイズの原因となるウイルスで、サルに感染する引き起こすSIV(サル免疫不全ウイルス。ただし、サルでは感染してもエイズの症状を引き起こさない場合もあります)がヒトに感染するよう進化したものであると考えられています(参考:wikipediaのHIVの項)。HIVが発見されたのはwikipediaによると1983年ですが、CDCのHIVに関するQ&Aのページによれば、1959年にコンゴの男性から採取された血液サンプルから、最古のHIVが検出されているそうです。


HIVがワクチン起源だという説は、1999年に出版されたエドワード・フーパーが「The river」という書籍で提唱し、広まりました*3。日本語版はないようですが、内容をまとめてくださった方(「エイズの起源をめぐる争い」こちらは気になる科学探検隊)がいらっしゃいました。エドワード・フーパーの主張では、1950年台にアフリカでSIVに感染したチンパンジーの細胞を用いて製造されたポリオワクチンによりSIVがヒトの体内に入り、ヒトに感染性のあるHIVに進化したのではないかということです。この説は、その後、エイズウイルスの感染源とされたワクチンロットの現存サンプルの解析により、チンパンジー細胞ではなくサルの細胞を用いて製造されたことが判明したこと、またSIV/HIVの混入が見られなかったことや、分子系統学的な研究*4により、アフリカでのポリオワクチン接種キャンペーンが行われる少なくとも10年以上前からHIVの分化が起こっていたと考えられること等から、現在では妥当性はほぼないとされています*5


しかしこの動画では、問題はチンパンジーではなく「アフリカミドリザル」ですから、上のHIVポリオワクチン起源説とはまた別の話のようです。実は、HIVの起源は、過去にはアフリカミドリザルだと考えられていました。しかし、前述の分子系統学的解析により、現在ではHIV-1(HIVの種類のひとつ)はチンパンジーから、HIV-2はスーティーマンガベイと呼ばれるサルからヒトに伝搬したと考えられています*6


また、細かいことですが、「ヒルマン博士」は西アフリカからアフリカミドリザルを輸入したと発言しています。しかし、西アフリカ起源とされているのはHIV-2の方で、アフリカミドリザル起源とされていたHIV-1は中央アフリカが起源と考えられています*7から、辻褄があっていません。


というわけで、「ヒルマン博士がアフリカミドリザルを持ち込んだことで、エイズが流行した」という説には無理があることがわかりました。ただし、このインタビューが1988年以前に行われたものであれば、ヒルマン博士とされる発言者が、「アフリカミドリザルによりエイズウイルスが持ち込まれた」と考えていた可能性はあります。1988年にアフリカミドリザル由来のSIVゲノム解析が行われるまで、先に述べたように、HIV-1はアフリカミドリザル由来であると考えられていたからです(HIV-1が中央アフリカ起源であるという知見がこの頃あったかどうかはわかりません)*8。しかし、1988年以前と言えば、ヒルマン博士はメルク社の研究員であったか、退職して間もないころです。いくら「インターネットがなかった」からと言って、聞かれてもいないのに、録音されていると知ってて、このようなことを軽々しく発言するものでしょうか?疑問に思います。


どちらにせよ、「エイズウイルスがアフリカミドリザルからメルク社のワクチンを経由して広まった」というのは、最近の知見からは、ほぼ完全に否定されるシナリオであることは確かです。というか、(この動画を除いては)今までに「そうかもしれない」という疑惑すら浮上していない説です。
  
 

メルク社がエイズワクチンを開発しないわけ

動画では、ヒルマン博士によってエイズウイルスが持ち込まれたから、メルクはワクチンを開発しないのですね、と笑っています。これは冗談のつもりなのかもしれません。しかし、エイズワクチンがこれまで実用化されていないのは、HIVの性質のためなのです。HIVRNAをゲノムとして持ち逆転写(RNAを鋳型としてDNAを合成する)を行うレトロウイルスの仲間です。この逆転写では、通常のDNAからDNAを複製する反応よりずっとエラー(変異)が起きやすく、DNAをゲノムとして持つ通常の生物の100万倍の速度で進化するそうです。そのために多様性が非常に高くワクチンの開発も難しいのです*9。ちなみに、メルクは一日一回投与の「アイセントレス」を始めとして、複数の抗HIV薬を発売しています。また、こちらの臨床試験情報検索サイトで検索すると、現在もHIVワクチンの開発中であることがわかります(例えばこちら*10


この動画、実は2007年にも同じ物がYoutubeに投稿されていたようです(英語版)。当時書かれた「WIRED」の検証記事(「Did Merck Bring AIDS to America? No.」)が出てきました。動画のリンクは切れていますが、文章の内容からこの動画に間違いないと思います。WIREDの見解では、笑い声を上げているのはメルク社の他の研究員で、この会話はブラックジョーク(Sick joke)だと言っています。2007年当時、この動画は米国内で「Science Watch Dog(科学の見張り番)」のメーリングリストによって出回っていたそうです。なんにしても、いつなんのために語られた話なのか不明で、勝手に「イメージ映像」を乗せされたこの動画は、「怪動画」としか言いようがありません。


次回、ポリオワクチンとSV40の話に続きます。

*1:ヒルマン博士が開発したおたふく風邪ワクチンは、娘さんが5歳の時におたふく風邪にかかった際に採取したウイルスが元になっており、現在もそのウイルス株が使用されているそうです

*2:skeptic's wikiによれば、Len Horowitz博士=Leonard Horowitz博士は、反ワクチン論者及び種々の「自然療法」の推進者で、AIDSやエボラは米国政府により意図的に流行させられたと主張する書籍やパンフレットを多数自費出版しており、ワクチンプログラムのボイコットしているグループのリーダーに影響を与えている人物だそうです。

*3:それ以前にローリング・ストーン誌でも類似の主張した記事が掲載されましたが、訴訟沙汰になり、後日「科学的証拠がなかった」という趣旨の釈明記事を掲載したことがあるそうです

*4:HIVSIV塩基配列を調べて、いつどのように進化したかを推定する方法。やや専門的ですが、京大ウイルス研究所のこちらの資料が参考になります。「エイズウイルスの起源・進化

*5:Debunked: The Polio Vaccine and HIV Link, The College of Physicians of Philadelphia, The History of vaccines

*6:HIV types, groups, subtypes and recombinant forms: errors in replication, selection pressure and quasispecies., Eberle J, Gürtler L.,2012、一般向けにはHIV/エイズについて考えたことがありますか? セーフティジャパン, 日本エイズ学会理事長へのインタビュー

*7:エイズウイルスの起源・進化

*8:Sequence of simian immunodeficiency virus from African green monkey, a new member of the HIV/SIV group., Fukasawa Mら, Nature

*9:エイズ研究の歴史, エイズワクチン開発協会

*10:と言うか、もしメルクがエイズワクチンを開発していたとしたら、たぶん「だからメルクはエイズワクチンを開発したのですね」と言っていたでしょう。