ネイルアートのリムーバー、アセトンは超危険?
最近、なぜか2005年に書かれたブログエントリが注目され、twitter等で拡散されているようです。内容は、「ネイルアートのリムーバーであるアセトンの危険性」について、「有機化学で博士号をとった」筆者が警告するというもの。私は、ネイルアートはやらないのですがアセトンを実験で使っていたことがあり、素手で触ったりもしていましたから気になって調べてみました。なお、ネイルアートのリムーバーに100%アセトンを使うことが一般的なのかどうかについてはわかりません。ネイルアートに詳しい方、教えてくださると嬉しいです。
アセトンと酢酸エチル
このブログでは、アセトンの危険性を告発しつつ「酢酸エチルはさして毒性がなく、くさくて気持ち悪くなる程度だと思う」としています。しかし、実際MSDS(製品安全性データシート:化学薬品メーカーが、製品である化学薬品に添付する安全に関する情報提供のための資料)を見てみますと、この表現には首を傾げたくなります。たとえば、ブログ中にも出てくるLD50値(半数致死量:動物実験で半数が死亡する投与量。LD50の値が小さいほど、毒性は高い。)は以下のようになっており、アセトンと酢酸エチルで大きな違いがないのです(ブログ中のアセトンのLD50値は10.7mg/kgとなっていますが、間違いのようです)。ちなみに、ブログ中では「(LD50値である)10.7mg投与しただけで、半数のネズミが死ぬ」と書いてありますが、これは間違いです。LD50は体重1kgあたりであらわしますので、ネズミは1kgもありませんから、もっと少ない量で半数が死ぬことになります。
- アセトン
経口 ラット LD50 >5000mg/kg *1
経皮 ウサギ LD50 >5000mg/kg
吸入 ラット LD50 32000ppm(75.8mg/L)
- 酢酸エチル
経口 ラット 4940 mg/k〔PATTY (5th, 2001)〕、5600 mg/kg(ACGIH (2001))
経皮 ウサギ 18000 mg/kg24時間閉塞適用で死亡なし〔DFGOTvol.12 (1999)〕
吸入(蒸気): ラット 16000 ppm(4時間換算:19600 ppmV)〔ACGIH (2001)〕
MSDS アセトン
MSDS 酢酸エチル -安全衛生情報センター
より抜粋
この他の健康に対する有害性を見ますと、アセトンと酢酸エチルに共通して見られるのが「 眼に対する重篤な損傷性・刺激性 区分2B(眼刺激性)」及び「特定標的臓器毒性(単回ばく露) 区分3(気道刺激性、麻酔作用) 」です。アセトンにのみ記載があるのは「特定標的臓器・全身毒性(反復ばく露) 区分2(血液) 」で「ボランティアによる試験で500ppm、6時間/日、6日のばく露群に白血球、好酸球の有意な増加及び好中球の貪食作用の有意な減少が観察されている。」とあります。また、生殖毒性に関しては酢酸エチルは「データなし」ですがアセトンでは「 疫学調査で流産への影響なし。ラットの高濃度ばく露(11000ppm(20mg/L))でわずかな発生毒性(胎児体重減))が、マウスの高濃度ばく露(6600ppm(15.6mg/L))で胎児体重減、後期吸収発生率増が報告されている。」とあります。これらの健康への有害性は、かなりの高濃度か、毎日連続で長時間使用した場合のデータであることに注意が必要です。ネイルリムーバーとして短時間使用した場合の毒性の強さが、アセトンと酢酸エチルで大きく異なるということを示すものではないでしょう。また、ネット上には「アセトンは劇薬である」旨の記述が見られますがこれは誤解です。劇薬という言葉は薬の分類を表すものなので、それに相当する劇物という言葉がありますが*2、アセトンは劇物ではありません。酢酸エチルの原液は、劇物に該当します。
アセトンの発がん性
ブログではしきりにアセトンの発がん性を強調しています。「アセトンとその揮発ガスの毒性、発ガン性はピカ一」とまで書いてあります。しかし、その根拠は示されていません。MSDSを見ると、発がん性については「ACGIH グループA4(ヒト発がん性に分類できない物質)」となっています。ちなみに、酢酸エチルでは「マウス腹腔内8週間投与試験が実施されている〔IUCLID (2000)〕が、データ不足のため分類できない。 」となっています。つまり、どちらの物質も、発がん性を示すデータも否定するデータもない、ということです。ブログでは、「因果関係まで踏み込まれた論文は無いのですが(化学物質との因果関係の証明は難しい)」と書かれていますが、アセトンのような非常によく使われる化学物質に「ピカ一の発がん性」があって、因果関係を示す文献が(それどころか相関関係を示した文献すらも)ない、というのは不思議な事です。そもそも、なんの根拠資料もないのに「発がん性はピカ一」などと定量的な表現がなぜできるのか非常に疑問です。ちなみに、発がん性とも関連すると考えられるin vitro 小核試験(遺伝毒性試験として行われたもの)では、アセトンは陰性となっています。
米国のニューハンプシャー州の公的機関であるNew Hampshire Department of Environmental Servicesが2005年に発行した「Environmental Factsheet Acetone: Health Information Summary」には、アセトンの発がん性について以下のように記載されています。
発がん作用
労働者のアセトンの吸入暴露による潜在的な発がん作用を評価することを目的とした1つの研究において、過剰発がん*3は認められなかった。動物実験においてアセトンの発がん性を扱ったデータはない。アセトンに類似した化学物質ではヒトに対する発がん性はこれまでに認められていない。アセトンは U.S. Environmental Protection Agency (EPA)によりグループD(分類のためのエビデンスが不十分)に分類されている。Carcinogenic (cancer producing) Effects
The one study conducted to investigate potential carcinogenic effects from inhalation exposure to acetone by workers did not find any excess cancer incidence. There is no data regarding the carcinogenicity of acetone in any animal studies. Chemicals similar to acetone have not been found to be carcinogenic to humans. Acetone has been categorized by the U.S. Environmental Protection Agency (EPA) as a Group D carcinogen (inadequate evidence to classify).
政府のMSDS?
ブログに「政府のMSDS安全データシート」として示されているアドレスは、リンクが切れていますがJPCA(石油化学工業協会)のドメインのものです。JPCAは業界団体であり、政府の見解とは特に関係ないと思われます。それに、発がん性の有無について、「文献に記載がない」というのは事実であって、つまり白黒が判断できないわけですから、判断できないと書くのが科学的には適切なわけです。なにもごまかしではありません。
以上、ごく簡単に検証してみましたが、アセトンが酢酸エチルより毒性が非常に強いという根拠は見つかりませんでした。また、アセトンが「ピカ一の発がん性」を持つと考える根拠も見つかりませんでした。しかし、アセトンを高濃度で継続的に曝露することは健康に良くありません。使用するときはなるべく薄めて、換気を行いながらというこのブログのアドバイスには賛成できます。さらに、アセトンも酢酸エチルも消防法上の危険物であり、火気厳禁なのも賛成です。アセトンも酢酸エチルも、どちらも、同じように気をつけて使うべきでしょう。また、発がん性については特に「発がん性が高い」ことを示すデータは今のところありませんが、詳しくはほとんど調べられていないようですので、気になる方は蒸気を吸わない、素手で触らないなど気をつけたほうがいいでしょう。これは、酢酸エチルでも同様です。
最後に、上記にリンクされているMSDSを見て「こわい」と思ってしまわれた方がいるかも知れません。MSDSは化学物質について分かっている安全情報を片っ端から書きますので、おどろおどろしくなってしまいます。そこで、誰にでも馴染のある「エタノール」(エチルアルコール=お酒の中のアルコールです。最近では除菌スプレーなどとしても利用されている方も多いかも知れません)と蒸留水のMSDSをリンクしておきます。アセトンや酢酸エチルと読み比べてみると興味深いと思います(LD50はエタノールの方が低い=急性毒性強いです。原液を飲むことはないと思いますが)。
MSDS エタノール
MSDS 純水
2012. 12. 20 エタノールのMSDSのリンクを修正しました。