エコチル調査と放射能

エコチル調査とは

エコチル調査をご存知でしょうか。環境省が行なっている、「子どもの健康と環境に関する全国疫学調査」で、10万組の子どもたちとその両親の参加による、大規模な疫学調査です。その研究デザインは以下のようなものです。

<調査の概要>
エコチル調査は、赤ちゃんがお母さんのお腹の中にいるときから13歳になるまで健康状態を定期的に調べる、出生コーホート(集団を追跡する)調査です。
子どもの健康と環境に関して、わが国ではかつてないほどの、大規模かつ長期的な調査です。全国15地域、10万組の子どもたちとそのご両親に参加していただきます。


<調査の目的>
エコチル調査の目的は、子どもの成長や健康に影響をあたえる「環境要因」をさがし、解明していくことです。
調査の結果にもとづき、子どもの成長や健康に影響をあたえる原因となる物質の使用を規制するなど有効な対策を講じることで、子どもが健やかに成長できる環境、安心して子育てができる環境の実現をめざしていきます。


<調査期間>
リクルート期間(3年間)と追跡期間(13年間)として、2011年1月から2027年までを予定しています。
(以下略)


環境省エコチル調査HP「 調査の概要」より抜粋

子どもの健康と環境汚染の関係については、かねてから世界中で大きな関心が集まっており、1997年の先進8ヶ国環境大臣会合で「マイアミ宣言」が合意されて以来、各国で取り組みが進められています。国内でも、2007年10月から「小児環境保健疫学調査に関する検討会」において、新たな疫学調査の立ち上げについて議論が進められ、2010年度にこの「エコチル調査」が開始されました(環境省エコチル調査HP「なぜ必要なの?」より)。世界的な流れの中で立ち上げられた大規模疫学研究であり、検証する仮説は環境省から提示した仮説案を基に、国民から寄せられた要望あるいはワーキンググループ委員等の専門家から寄せられた仮説を整理し、関連する専門分野のワーキンググループにおいて決定されました。検証される仮説は下記の表にまとめられています。


環境省エコチル調査HP 子どもの健康と環境に関する全国調査(エコチル調査)研究計画書(第1.14版)より

エコチル調査と放射線影響、そして陰謀論

このように、震災のはるか以前より計画され、事業仕分けの大粛清もくぐり抜けて実現にこぎつけたエコチル調査。これまで疑惑を持たれながら決定的な証拠がなかった、さまざまな「化学物質と子どもの健康」についての関係をはっきりさせる一助になる、非常に意義深い研究であると思います。しかし、昨年、環境省がこのエコチル調査への追加的な調査として、「東京電力福島第一原発事故で被曝した恐れがある母親から生まれた子どもへの影響を検討する」方針を発表して以来、本調査に対する奇妙な風評がネット上などでささやかれるようになってしまっているようです。例えば、「国は福島の子どもをモルモットにすることを決定した」「データを取るだけで治療するとは一言も書いていない」「この調査で放射能による差が出ないようにするために全国に瓦礫をばらまいている」etc.…


「平成23年度第2回 エコチル調査企画評価委員会」資料に、「資料6 エコチル調査における放射線被ばくの扱いについて」というのがあり、確かにエコチル調査で追加的に放射線影響を調査する方針が述べられています。本資料には以下のように書かれています。

1.背景
(略)
放射線被ばくの健康影響については、現在の基本計画及びこれに沿ってコアセンターが作成した研究計画書では対象とされていない。一般に、放射線被ばくによる健康影響が疫学研究によって見いだされる放射線量は100mSvを超えると考えられているが、今回の事故に伴う公衆の被ばく線量はこのレベルを大きく下回っていると推計されており、エコチル調査において、放射線被ばくと特定のアウトカムとの関連について仮説を立ててこれを検証するというデザインで調査を行うことは困難と考えられる。さらに、放射線被ばく量を含めた解析を行ったとしても、震災や避難生活に伴うストレス等がある場合、その影響に隠れてしまう可能性についても留意が必要である。
しかしながら、放射線の健康影響に対する不安を解消していく観点からは、エコチル調査において、放射線被ばく量を環境要因に含め、他の要因との比較を行い、放射線被ばくによる影響が見いだされないことが確認されれば、大きな意味があると考えられる。


2.エコチル調査における放射線被ばく量に係る解析
上記の背景から、エコチル調査において、放射線被ばく量の推計値を環境要因に含め、健康の状況との関連に関する解析を行うこととする。
被ばく線量の推計については、空間線量の地理的分布データなど、既存のデータを用いて行うこととする。…(以下略)


平成23年度第2回 エコチル調査企画評価委員会「資料6 エコチル調査における放射線被ばくの扱いについて」より抜粋

つまり、環境省としては、「この規模で統計的に意味のあるデータは出せないだろう」と考えながらも*1、「人々の安心のために」いちおうデータをとっておくことにした、ということのようなのです。この対応は、最高に素晴らしいとは言えないかも知れません。「安心させるためにデータを出す」というのがいかにも「安心させたがる国のやり方」という感じで、あまりよくないなと思います。それでも、この取り組みがまったく無意味だとは思いません。まず、「奇形児が増える」だとか「福島の女性と結婚するべきではない」だとかの言説に対して、データを示す必要があります(悲しいことですが)。それから、その土地に住み続けることにどの程度のリスクが伴うのか、きちんと測って知ること、これは選択を行うための基本的な判断材料になります。さらに、もし将来なにか健康被害が出たとして、データがなければ「本当に被害がでたのか、それが放射線被曝によるものなのか」がわからない、という状況になってしまうことが考えられます。後の2つの点に関しては、本調査だけでなく、他の原発事故・放射線被曝に関連した健康調査に関しても同じ事です。調査を行わなければ、「◯◯という病気が私の周りで増えている、これは放射能のせいだ」といくら言っても、それを証明することは困難なのです。


本件だけでなく、疫学調査を「人をモルモットにしている」と揶揄する論調をたびたび目にしています(特に原発事故に伴う放射線被曝関係)。このような主張は、「危険かどうかわからない状態に人を置いておいてデータを取るのは非人道的だ。危険かも知れないならすぐ避難させよ」という考えに基づくと思われます。しかし、この世に「危険なのかどうかわからない、危険という説がある」ものは山ほどあります。もちろん、「明らかに危険」であると分かっている場合、それを避ける必要があると思いますが、「危険かもしれない」と言われているというだけで、過去のデータから見て危険でない可能性がかなり高い*2のに、明らかな不利益を伴う避難(=転居)を強制することが果えたして「人道的」なのでしょうか。健康に対する影響を客観的に測りながらそこに住み、居住し続けることに不利益がありそうな兆候があった時点で、その不利益と転居の不利益を比較してから転居を決める、という選択肢もあっていいはずです。これは、放射性物質であっても、他の環境要因に対しても同じことが言えると思います(しかしもちろん、今回の原発事故のような特殊な状況では、不安なのはイヤだから転居する、という選択肢もあるべきだと思います)。リスクをゼロにすることは不可能ですから、今現在分かっていることから総合的に判断して、全体のリスクをできるだけ小さくするというのが、合理的な判断ではないでしょうか。

疫学調査への理解が必要

エコチル調査について「放射能の被害をごまかして化学物質のせいにするためだ」などと言っている人などは、エコチル調査がいつから計画され、どれだけ多くのが関わっているのか、予算がどれほどかかっているのか理解できているとは思えません。それに、放射能の被害だったらダメだけど化学物質の被害ならいいというものではないことは明らかです。また、「調べるだけで治療はしないつもりだ」というのも的外れです。検査結果については本人に知らされます(と言っても、出生後の子どもに対しては「質問票調査」と「母子手帳の転記」が主な調査内容となっています。父母の採血や毛髪サンプル、臍帯血などを採取します。6歳時の採血は検討中。たぶん、子どもをから採血する=痛がらせることを考慮しているのでしょう。)。調査の過程で治療可能な疾患が早期に発見されれば、いち早く治療を開始できるのです。「データを取っているのだから治療させない」などということはありません。そもそも被験者に対する倫理的保護に問題のある研究など、国際的に認められるわけはありませんから、せっかく巨額の費用を投じて国家プロジェクトとして行うのに、そんな「もったいないこと」をしようと思う研究者などいないでしょう。参加者は調査内容の詳細な内容の説明を受けた上に同意した人たちですし、個人情報保護もきちんとなされます。


疫学の歴史は、1850年代のイギリス(ロンドン)におけるコレラの流行時に、麻酔科医のジョン・スノウが患者の分布が特定の井戸の周囲に集中していることを発見したことから始まっているそうです。これは、コッホがコレラ菌を発見するより30年も前のことでした。その後も脚気、母親の妊娠時の風疹による先天性疾患、タバコの害、がんのリスク要因の特定など、「メカニズムはさておき、因果関係を調べることができる」特性により、医学の発展に大きく貢献してきした(中村好一「楽しい疫学」より)。


Natureダイジェスト2011年6月号(元記事はNature2011年3月3日号)によれば、疫学発症の地・英国では、1946年のある1週間に生まれた赤ちゃん数千人に対する追跡調査が今なお続行中です。2011年3月、彼らは65歳の誕生日を迎えました。彼らは世界最長の出生コホート(同時期に生まれた統計集団)調査の対象です。この調査の成果は、これまでに8冊の本と600本の論文に報告されているそうです。この調査により、乳幼児期の成長や発達状態と、糖尿病、肥満、がんや統合失調症になるリスクといった成人の形質との間に、複雑に絡み合った結びつきがあること、30代および40代に定期的に運動を行うと、加齢に伴う認知能力の衰えが鈍化すること、子ども時代の知能検査で成績のよかった女性は、悪かった女性に比べて、閉経の時期が数年遅くなる傾向があることなどが明らかになっています。今後、このコホートは高齢化し病気がちになっていくと考えられます。老齢期に入り、中年期に見られた幼少時環境の人生への影響が薄れていくのかどうかが調査される予定だそうです。記事には、研究の参加者の声が掲載されています。

WardとMalvernは、自分がコホート調査に参加していることをうれしく思っている。「この調査は私にとって、ちょとした誇りになっています。おねしょだって情報になるんですよ。おねしょに関する国の情報保管庫に、私がどれほど貢献したことか」とWardは話す。2人はどちらも、自分たちが死ぬまで研究者たちに監視されても構わないと思っている。「この調査は、人が死ぬ運命にあり、永遠には生きられないことを受け入れる助けになると思います」とWardは言う。
(略)
さらに言えば、1946年出生コホート調査は、対象者が女性であれ男性であれ、また恵まれた家庭に生まれても貧しい家庭に生まれても、全員に永遠の名声を与えてくれた。彼らの生きた証は、液体窒素で冷凍した細胞系列内に保存されたDNAとして、また、パンチカードからコンピューターデータへと媒体を変えて残っていく。「人の思い出がいずれ消えてしまうことはよくご存知でしょう。でも、この記録保管庫には、自分の分身が存在し続けるのです」とWardはいう。「私はこれを、なんとしても手に入れたいと思うくらいの、"もう1つの自分史"と呼んでいます。」と彼はいい添えた。


Natureダイジェスト2011年6月号、p8-13より

疫学調査でなければ分からないことがたくさんあり、それを明らかにすることは、次の世代の人たちがよりよく生きるためにとても意義があることです。「エコチル調査」でも、たくさんの重要なデータが得られるはずです。自分の子どものことを大切に思う人は、たぶん、そのさらに子どもたちの幸せも願っているでしょう。エコチル調査で明らかになった科学的事実は、少し未来の子どもたち、その次世代の子どもたちに生かされます。このような調査に参加することは、けして「モルモット」にされることなどではなく、将来のよりよい社会のための礎を築くことだと思います。否応なく実験に使われているモルモットなどの実験動物とはまったく異なり、自らの意志で、人類の未来に貢献されている方々なのです。


そして、こちらの毎日新聞の記事「記者の目:内部被ばく量のデータ 斗ケ沢秀俊」にもあるように、リスクと向き合い、「測りながら住む」ことを選んだ方々の選択は尊重されるべきだと思います。非難したり、揶揄したり、無用な脅しを声高に叫ぶ人が少なくないという状況を悲しく思います。

*1:疫学調査では、調べたい影響が小さいほど調査規模を大きくしなければなりません。

*2:「すぐ避難」と言いたい人は、この危険性の見積もりに関して異なる意見を持っているのかも知れませんが、科学的にはずいぶん偏った考え方だと思います。