ブータンの医療と日本の医療から-「貧しくても幸せ」ということ
ブータンについては、「貧しいけれども、つつましい暮らしに国民皆が満足して幸福に暮らしている国」というイメージがあるようで、「お金はあるけれどもあまり幸せではない」日本人のなかには、このような暮らしをうらやむ、または未来の日本の行く末を考える上で参考にするべきとする向きもあるようです。経済的発展に行き詰まりを感じている現状の日本では無理もないことかも知れません。ブータンでは医療費が(外国人も含めて)無料で提供されているそうで、その点も羨ましく思えるのですが、ではその水準はどのようなものなのでしょうか?
外務省の「海外安全ホームページ」には、以下のような記述がみられます。
(1)渡航者全般向けの注意事項
(略)
(ハ)ブータンにおける病院はすべて公立で、外国人に対しても無料ですが、設備が十分でなく、医療水準も決して高いとは言えません。輸血、手術を要するような治療は期待できないと考えてください。また、上下水道が整備されていないことから、消化器系の伝染病、感染症等に注意が必要で、飲料水にはミネラルウォーターを利用するなど、衛生管理に十分注意が必要です。
(略)
(3)長期滞在者向けの注意事項
(略)
(ロ)ブータンでは、十分に信頼できる医療設備、医療サービスが期待できないので、常備薬を十分に携行し、手術等緊急医療、移送が必要な場合の出国手段について確認しておくことをお勧めします。
そこで、WHOによる医療統計(2011年)から、ブータン、日本、そして参考に世界平均のデータを抜粋してみました。
以下、データはすべてWHO: World Health Statistics 2011 より
平均余命と死亡率(2009)
国 | 平均余命 |
死産率 (1) |
新生児 死亡率 (2) |
1歳までの死亡率 (2) |
5歳までの死亡率 (2) |
15歳〜60歳の死亡率 (3) |
|
---|---|---|---|---|---|---|---|
日本 | 83 | 3 | 1 | 2 | 3 | 64 | |
ブータン | 63 | 22 | 34 | 52 | 79 | 228 | |
世界 | 68 | 19 | 24 | 42 | 60 | 176 |
(1)出産1,000あたり(2)出生1,000あたり(3)人口1,000あたり
原因別の死亡率
国 | 妊産婦死亡率 (2008)(1) |
HIV/AIDS (2009)(2) |
結核(HIV陰性者) (2009)(2) |
---|---|---|---|
日本 | 6[5-8] | データなし | 1.4[1.1-1.8] |
ブータン | 200 [110-370] | 3.7[1.3-6.5] | 8.3[4.5-17] |
世界 | 260[200-380] | 33[28-39] | 20[17-22] |
(1)出生100,000あたり (2)人口100,000あたり
1歳児への接種率(%)
国 | はしか | 三種混合 | B型肝炎 |
---|---|---|---|
日本 | 94 | 98 | データなし |
ブータン | 98 | 96 | 96 |
世界 | 82 | 82 | 70 |
医療従事者数、医療インフラ
国 | 医師 | 看護師/助産師 | 歯科医師 | 病床 |
---|---|---|---|---|
日本 | 20.6 | 41.4 | 7.4 | 138 |
ブータン | 0.2 | 3.2 | 0.3 | 17 |
世界 | 14.0 | 29.7 | 3.0 | 29 |
(すべて人口10,000あたり, 2000-2010, 病床数は2010)
医療費(2008)
国 | GMPに占める 医療費 (%) |
医療費に占める 政府支出 (%) |
一人あたり 医療費 (US$) |
---|---|---|---|
日本 | 8.3 | 80.5 | 3190 |
ブータン | 5.5 | 82.5 | 100 |
世界 | 8.5 | 60.5 | 854 |
これらのデータを見ると、日本の医療の水準の高さがよくわかります*1。それから、日本の高度医療と言うと、ともすれば「高齢者のためのもの」と受け取られがちですが、実際にはは出産時や乳幼児期、若い間の死者の数にも大きな差があることがわかります。ブータンの医療水準では、出産で母親や子供が死んでしまうこと、医師の数が不足して満足な治療が受けられないこと、輸血や手術ができずに亡くなってしまうことが日本よりずっとずっと多いのです。自分の大切な人が若くして死んでしまうことを、「そういうものだ、しかたない」と受容し、その覚悟で人生を送る必要がありそうです。現在の、「リスクは極限までゼロに近づけること」が求められている日本とは正反対の状況です。そのような覚悟なしに、「貧しくても心は豊かに」生きることはできないのです。
ブータンの人々が幸福に生きているということを否定するつもりはありません。彼らはそういう覚悟を持った上で、幸せに生きているのでしょう。また、ブータンではここ数年でかなり医療状況が改善されてきていることも、同資料の過去のデータとの比較から理解できますので、「将来への希望がある」状態にあるため、幸せを実感しやすいとも言えるでしょう。それから、はしかワクチンや三種混合ワクチン、B型肝炎ワクチンの接種率に関してはブータンは日本と同等かそれ以上の高さを誇っているところもすごいことだと思います。
日本の医療水準を支えるには、経済力の高さが不可欠です。ブータンの庶民が、外務省の言うような「手術等緊急医療、移送が必要な場合の出国手段」を持っているとは思えません。それでも、ブータンのような生活をうらやましいと感じるかどうか。あるいは、日本の医療を「やりすぎ」と感じるかどうか、そうなら、どこまでが適切な医療なのか。幸せとはなにか、医療に求めるものはなにか…それは私たち一人ひとりが考えていかなければなりません。そして、日本の「安全、安心」の暮らしは世界では決して当たり前のものではないこと、それが可能なのは日本の経済力があってこそだということも忘れてはいけないと思います。